アサメシヤ

庭師の目線で見る世界

仕事か遊びか生活か

先日、僕が育てた稲から米を収穫しました。

米つくりは初めてでしたが、近所の人からあれこれ教えてもらい収穫量も味も申し分なしでした。

農薬はできるだけ使いたくなかったので有機肥料と、草引きを全てこなす自信がなかったので一度だけ除草剤を使いました。

本当のところは機械も使わず昔ながらの方法でやりたいところですが、一反三畝という広さを一人でこなすのは無理がありました。

田植えや稲刈りでは友人に手伝ってもらいましたが、メインは機械で、人が機械を補助するような形になります。

昔の人はそれを手でやっていたんだから、すごい。というけれど昔と今では根本的な考え方が違うのではないかと思います。

米を作り始めてから自分は機械でほとんどの作業をこなしているけど、手作業だとどうやるのかと興味がありました。

そうしてアンテナをはっていると昔ながらの方法で米つくりをしている所とつながりが増えて手伝いに行くこともありました。

例えば稲刈りを大人数でやるわけですが、数の力は強力であっという間に進みます。

機械だと全て自分でやらないといけないところですが、大人数だと少しの間作業に没頭していてふと周りを見回してみればいつの間にか進んでいます。

更に作業の分担も出来て稲を鎌で刈る人、刈った稲を束ねる人、はざ掛け(稲を干す棚)を作る人、稲を運ぶ人、みんなのお昼ご飯を作る人など人数さえいれば、一人一人の負担は軽くなります。

とはいえ何より思うのはみんなでする作業は楽しいということです。

一人で機械を動かすことは嫌いじゃありませんが、やはりみんなで手作業の方が楽しいのです。

手作業というのは機械を使うより改良の余地が多いので意見を出し合って試行錯誤できるのでつくる楽しみがあります。

手を動かしながら話すことは座って話すより打ち解けやすいようにも感じます。

そしてご飯係の人がおにぎりと汁物をもってきてくれて田んぼを見ながら食べるご飯のなんと美味しいことか。

仕事をしているというより楽しくて遊んでいるようです。

お米を作るには大変な時間と手間がかかります。

多くの作業が機械化され効率的になったといってもその分、人手が減り一人当たりが作る面積は増えるわけです。

米作りに限らずですが、仕事というものが効率化を目指し専門的になると、同じ事をする時間が増えます。

つまり、手作業で米を作っている時代より全体としては作業時間は減っていますが、一人の人間が作業する時間は増えているのです。

農業は専業より兼業が多いので一概にはいえません。僕の場合も米つくりを専門にやっているわけではないので当てはまらないのですが、多くの仕事には当てはまると思います。

今回は田植えや稲刈りで手伝いには来てもらっているものの、基本的な作業は機械に乗っているので単独です。

機械に乗るのは好きなので遊び感覚で楽しくやっていますが、毎回やっていれば飽きてきてそれは仕事になってくると思います。

ここで一度、仕事、遊び、生活という言葉を見直したいのですが、人それぞれ違いがありそうですが、僕が定義する意味は

仕事:対価としてお金、またはそれに相当するものを受け取る作業。生きる糧。

遊び:楽しいこと、しなくても生きていけるがしないと生きていても意味がない。

生活:生きるための行動、仕事も遊びも含まれる。楽しいこともあれば、いやなこともある。

簡潔に定義するとこのように感じています。仕事の対価としては畑で野菜を作ってそれを収穫することも、信用も含まれます。

僕にとっての仕事は米つくりもそうですが、対価を一番貰っているものは庭師としての仕事です。

対価を得るために僕は多くの時間を庭師の仕事に使います。もしこの時間が苦痛なものなら仕事は嫌なものになるわけです。

実際仕事をしていれば嫌なこともありますし、庭師の始めたては毎日が苦痛でした。

しかし今は庭師の仕事が楽しくて続けています。遊びと仕事同時にこなし対価を受けとっています。

仕事は遊びにもなります。

僕はしょっちゅう遊んでいます。でもそこには多くの場合対価が発生しています。

趣味の畑も、近所の人と魚釣りに行ったり、キノコ狩りをしたり、ジビエ捌いたりすることは、そのまま食べ物という対価になります。

遊びの中で庭師の仕事を貰ったり、米を買ってくれる人もいます。

何処かに出かけたり、人に会えば新しい知識や経験、価値観という対価をもらうこともあります。

遊びは仕事にもなります。

仕事とプライベートを一緒にするな、仕事は遊びじゃない、とかの声は聞こえますが、僕としては大いに一緒くたにして結構なんじゃないかと思います。

というか、そもそもそこの境界線は本来曖昧なものだと思います。

遊びの反対語に仕事をもってくると仕事は楽しくないものになってしまいます。

仕事を生きる糧と定義付ければほとんどの人は多くの時間をそこに使うわけなので仕事を楽しくない時間にしてしまうのは残念なことです。

話をお米つくりに戻すと楽しく米をつくるなら機械ではなく手作業の方がいいのではないかと思ったわけです。

金銭的な対価は減るけれども、みんなで楽しく作業する。ということも価値なのです。

遊びから仕事が生まれることを考えたら、仕事というのは本来楽しくあるべきものではないでしょうか。