アサメシヤ

庭師の目線で見る世界

自分探しの旅で本当の自分を見つけた・・・かもしれない

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旅をしていると様々な人と出会う。


その中には明確な目的をもって旅をしている人もいれば、ただなんとなくしているという人もいる。


「自分探しの旅をしているんだ」


と宣言している人には会ったことないけど、言うのも聞くのも恥ずかしい言葉である。


そもそもこの自分を探すとはどういうことなんだ。



google先生に聞いてみても一人一人の意見はあってもあくまで個人的な意見。明確な答えは見つからない。


確かにgoogle先生に聞いて分かるような事なら旅せずとも検索すればいい話だ。



僕は学生のころから海外旅行に行き始めた。カンボジアやベトナムなど東南アジアの物価の安い国を旅した。


その時の旅の理由、明確な理由があったわけではないのだが今になって言葉で表してみるとこんな感じになる。


「色々な世界を見てみたい。そして新たな価値観を知り、自分の成長の糧にしたい」


そこには自分を変えたいという気持ちがあった。


ということはこれは「自分探しの旅」だったともいえる。


その時自分が見つかったかといえば、


・・・否! 見つかったとは思えない。


確かに色々経験もできたし、成長はできたと思う。



人生観変わるといわれるインドも行ったけど、そんな大げさなほど変わらなかった。


確かにその時ストリートチルドレンや物乞いの多さには驚いたし、この人達と自分の境遇の違いについて考えたこともあった。


しかし頭の中では考えることがあっても実際に何か行動に移したわけではない、落としたものも抵抗なく拾い食いできるようになったくらいだ。


考え方が変わればこれからの行動に影響は与えるだろうが、それで自分が見つかったとは言えないだろう。


自分の人生を左右するような大きな行動することで初めて本当の自分が見つかったといえる。



自分探しの旅に出るということは何かしら現状に満足していないことがあるからだ


旅に出て現状を変えるというのは旅から得た経験や知識、思考を活かして別の道に進みたいと思うからだろう。


旅から帰った後、旅の途中でも何か行動を起こさないといけない。


そうでなければせっかくの自分探しの旅もただの観光旅行で終わってしまう。


学生の頃の僕はまだ世界が遠くに感じられ、自分と世界との繋がりが見えなかった。



会社員になってからもお盆や正月休みにはバックパック一つで旅に出かけていたけどその時になると、見た目はバックパッカーでも、学生の時以上に観光旅行をしていたように思う。


なぜなら、休みが短いため色々詰め込み過ぎて考える時間がなかったこと、そして周りの人間に旅好きや世界に目を向けている人がいなかった。


会社の中や近くの人は人間関係の不満や他人の噂話ばかりして世界が狭かった。


仕事に対する向上心もあるにはあると思うが目指しているところが低かった。


会社の中で一番を目指しているとか目標が低いうえに、自分を高めることより相手を蹴落とすことで自分を高く見せようとしているようだった。



これはおかしいと思うこともあったけれど、ずっとその環境にいると諦めというかそれが普通になってくる。


3年ほどして仕事にも慣れてきたらやはりこのままではいけないと思いはじめるようになった。


幸い超絶ブラック企業というわけではなかったので週一で休日はあるし、毎晩遅くまで働かされるというわけではなかったので夜に飲み会に出かけたり、英会話スクールに通うことで会社とは別の人間と関わるようになった。


そして自分と同じ世代の人と関わることによって思ったことはやはり自分は周りと比べて考え方も幼いし、スキルも圧倒的に少ないと思い知らされた。


それから会社を退職し自分で仕事を始めた。


自分ではじめた仕事自体は忙しかったが楽しくできていた。様々な業種の人とも関わるようになり、多くの技術を習得できた。


しかしそれでもまだ釈然としないところがあった。もともとこの仕事を選んだのは人のためになりたいと思うからだった。


確かにためになってはいると思うが、もっと人のためになることが出来るんじゃないだろうか。



そんな気持ちを抱えてまた旅に出かけることにした。しかし今度はいつものように忙しい旅ではなく全く予定のない1か月の旅。


行き先はポーランド、そこから少しづつ南下していくことにした。


実は予定がないといっても一つだけ行きたいところがあった。


それはアウシュビッツ強制収容所。


以前イスラエルに行った時からユダヤ人迫害の歴史をもっと知りたいと思い、いつか行きたいと思っていた。


アウシュビッツ強制収容所に実際に収容された心理学者ヴィクトール・エミール・フランクルの本を読んでその悲惨な状況は少しは知っていたつもりだったが、実際に行ってみると収容された人々の使っていた日用品の山や数百万という人間が殺されたガス室に入るとなんともやるせない気持ちになってくる。


そこで気づいたことは、本当に自分の力ではどうしようもない状況に追い込まれた人たちに僕は何かしたいと思っていることに気づいた。


そう、あの時インドでストリートチルドレンや物乞いと会った時にも感じた気持ちだ。


あの時はまだ自分にできることはないかと思っていたが、仕事でも自分にできるとは思っていなかったことが出来るようになっていくことが多かった時期だったのでやれば出来るんじゃないかと思うようになっていた。



日常生活ではなかなか時間もなく自分の人生について考えることは少ない。


というか、仕事や生活のことで頭がいっぱいでそんなこと考えている暇がない。


考えるためには時間が必要だ。


旅はそんな考える時間を与えてくれる最高の環境だ。


日常のなかで時間をとったとしても、どうしても他にやることがあると気が散って深いことまで考えることができない。


しかし旅の間は日常から完全に離れている。強制的に日常から離れられ、時間もたっぷりある。


雄大な自然や、他国の文化に触れることで新たなイマジネーションも起こるかもしれない。



旅を通して本当にたくさんのことを考えた。今の生活を続ければ別に生活に困ることはないし仕事も順調なのでもっと大きなこともできるだろう。


しかし、なんとなく先が見えてしまった感じがする。悪くはないのだけれど、面白くないと感じてしまった。


それなら後悔するくらいなら新たな道に踏み出そうと思った。


どうせ失敗しても元に戻るだけだ。失うものもない。



そんな時ちょうどお客さんの中にタイの山岳民族と関わりのある人がいた。


貧困や人身売買に関する本を読み漁っていて、そこで山岳民族など貧困層であったり国籍のない人たちというのが被害にあうことが多いと知っていたので、早速紹介してもらった。


単身タイの山奥に突っ込んだ。そこで実際に支援している施設や学校など見ることが出来た。


目標が決まっていると何を見て、何を聞けばいいか分かる。効率的に学ぶことができたと思う。


そして新たな疑問がわいてくる。疑問は尽きない。



まだまだストリートチルドレンや物乞いの力になれるようなことはできていない。


数百人程度なら何とかなっても、そもそもそういう状況を作らない世界を作りたい、そのためには社会構造を変えなくてはならない。


多くの人を巻き込み、一人一人の意識を変えることが重要になってくる。


今はそのことに重点をおいて活動している。



数年前までは自分がここまで変わるとは思えなかった。


自分を変えたのはやはり旅だったのだろう。


旅というのは未知の世界に行くことで、知らない土地に行くことだけでなく、今まで自分が知らなかった環境にいくことも旅なのだと思う。


入学なんかも旅といえるし、転職や新たな趣味をもつこと、人との出会いも旅といえる。



そしてもしこれからバックパックを担いで(スーツケースを引いてでもいいが)リアルに旅にでる人は予定を組まない旅をして欲しい。


出来れば2週間以上行くことが理想だ。それだけあれば帰ってからの仕事や日常のことを考えずにすむ。


そしてどうか観光で時間をとられるようなことはせずにして欲しい。


ついつい何もしないのは勿体ないと思ってしまう。そしてその考えのまま無理に何もしない日を過ごせば時間を浪費してしまったと考える。


そうではない。それは浪費ではない。それは現実逃避だ。誰しも不安なことからは目をそむけたくなるものだ。


自分の将来について考えたくないから、思考停止して自分で忙しくすることで現実から目をそらす。


テストの前に急に掃除がしたくなるのと同じ現象だ。


本当に今していることが自分のしたいことなのかよく考えないといけない。


考えるというのは本当に重労働だ。何も考えずに身体を動かしているよりもずっと疲れる。


忙しいことを充実しているといって自分を騙していないだろうか?


だから忙しい人にほどこう言いたい


「そんなことしてる暇があったら旅にでろ」